薬師町通り

 

 

国分寺を起源とする薬師堂が現在地に移ったのは1574年、最上義光の時代であったと

伝えられるが、明治44年(1911)の市北大火で堂宇は全焼、今はもみじ公園となっている

旧宝幢寺の本堂を移築して現在に至っている。その周辺では植木市とも呼ばれる薬師まつり

が執り行われ、境内だけでなく周辺の路上にまで出店が並ぶことが風物詩となっている。

国分寺薬師堂境内

移築された現在の薬師堂はその広さを生かして県会議事堂ができる以前には県議会の開催に使用されたとのこと。

町内会を公民館で開くような感じであるが、市北一帯が灰燼に帰した当時とあっては県議会議事堂再建までのやむを得ない措置であったのであろう。

 

 

  

参道を出ると正面は信用金庫 国井雑貨店

 

東をみればチトセ薬舗

 

 

雑貨店は閉まっていた

 

  

チトセ薬舗の前にあった各薬品メーカーのキャラクター

 

薬屋にはキャラクター人形のほか、電動の乗り物が設置されている場合があった。

子供連れへの配慮と思われるが、なぜか当時は薬購入者にキャラクターの指人形をおまけにくれたり、

人形型の容器に入ったシャンプーがあったり、子供が薬屋に行こうと思えるような手だてがふんだんに施されていた。

イメージ戦略か。

 

 

馬見ヶ崎橋方面

 

 

  

 

橋に向かって道はカーブする

 

この先馬見ヶ崎橋の袂には、山交バスの千歳公園前営業所があり、バス隆盛時は多数の車両が発着していた。

この先の印役町町内が道幅狭く、大型バスの往来に向かなかったこともあり、ここの地にターミナルを構えたものか。

いまは営業所はなく、バス待合所のみとなっている。また、護国神社脇のビルには当時話題になっていた

腕相撲の世界チャンピオンが経営する南波ジムがあり、筋肉増強を目指す人たちが通い詰める姿があった.

 

 

 

 

  

路地風景

 

通りの横をちょいと入ると多くの路地があった。通りよりさらに濃く昭和の雰囲気を残しており、

地元の人たちの便利な通路となっている。自転車がせいぜいで、車が通れるような幅はない。

 

 

  

アベ生花店                                     八千代寿司

 

 

  

デザイン専門学校

 

古い街並みにあって異彩を放つ白亜のビル。デザインを職業につなげるのは至難のことと思われるが、それでも毎年多くの学生を輩出した。

 

 

 

山川剣道具店

 

 

市内外の剣道愛好家、部員が集まる剣道具専門店、山川剣道具。

竹刀、面、小手など、自身の技術と予算に応じて選ぶのであろうが、

胴や垂れなどは実用を越えて風格を見せつけるような意匠を施されたものもあり、

剣道人の一種のステイタスになっていたのであろう。

 

 

  

ソフトクリームの有名店 まつざかや

 

夏でも冬でもまつざかやのソフトクリームを求める人は変わらずここを訪れていた。

さすがに冬には中華まんも置いていたようだが、主力はやはり、ソフトクリームやアイスもなか。安価に提供されていた。

 

 

 

 

 

山岸文房具店の角

 

山岸文房具店の脇の道にはギリギリ車が通れる幅があり、旧県庁裏に抜ける徒歩の人も多かった。

ここを入ると伝説の鴻ノ池や銭湯「滝の湯」などがあり、https://ht9901.zouri.jp/sentou.htm (銭湯)

夕暮れ時には味わい深い風景を見せていたのであった。

 

 

 

  

そば うどん 村形屋

 

 

高橋染物舗

 

 

四つ角

 

 

  

東海林酒屋                            クリーニングパリス  やきとり名人

 

 

 

 

 

  

十五屋菓子店                         クリーニングパリス 

 

 

          

五中方面

 

 

  

焼肉南大門                              パン屋 モアリッチ

 

 

 

  

佐藤八百屋

 

 

残念ながら、この商店街の多くの店は道路拡張の際に廃業してしまっている。

道路拡張の名目は「街の発展のため」と称されるのだが、実際には殆どの場合商店街の消滅につながっている。

店舗の取り壊しを機に廃業せざるを得ない例が多いためである。

小泉改革以来、大店舗有利の政策に転換され、個人商店の安定した経営は非常に困難なものとなっていた。

加えて物理的な店舗の消失は再建のための投資、負債を回収できる見込みが明確でなければ

高いハードルとなって事業の継続を阻んだ。こうして商店街はただの住宅街へと姿を変えてゆく。

 

 

  

酒井洋品店

最寄りの学校は山形五中であるが、その他も含め多くの生徒の制服を取り扱った酒井洋品店。

 

 

 

幅の広い道路は確かにできたが、人の集う商店は消えていった。

街の発展とは車の通行のスムーズさをいうのかもしれないが、

明らかに寂しくなった街並みを「発展した街」とはどうしても思えずにいる。

 

薬師町通り 2002年

 

 

 

 

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