ハワイという地名は今にも増して高度成長期の日本人には憧れであった。
1ドルが360円という固定レートの中ではよっぽどの金持ちでなければ実際にハワイに出かけることは
できず、各種商品のキャンペーン景品としてハワイご招待券が用いられるほどの特別の存在であった。
そのため、日本各地に「ハワイ」の名を冠したリゾート施設が姿を現し、雰囲気だけでも
(実際のハワイと違っていても)「ハワイ」を味わいたいという一般庶民を集めていた。
今の飯田地区は平凡な住宅街となっているが、四十年ほど前にはここにも一大リゾート施設があった。
建設中
1960年代、故黒川紀章氏が山形HD計画を提唱し、寒河江市役所庁舎や日東食品山形工場など次々に県内に作品を建設した。
飯田にあった山形ハワイドリームランドもその一つで、細胞をイメージした直線のほとんどない不定形の大規模建築であった。
なお、所在地は現在山形市飯田5丁目と呼ばれる位置で、当時は山形市蔵王飯田字水上となっていた。
左:ドリームランドの建物があった当時 右:現在の飯田5丁目
プール、遊具、水族館、温泉など当時考えられるレジャー施設のほとんどを備えたこの建物は
1967年(昭和42年)に開業するとしばらくは物珍しさもあって大いににぎわった。
浴場はフジツボ型の大ドームの中に棚田式に多数の浴槽が並ぶという奇抜なものであった。
ジャングル風呂といわれる野趣あふれる設定で、広大な空間に立体的に配置された多くの浴槽は
古今東西他に例を見ないと思える構成であった。
経営安定を狙ってのことか、さらに宮城県松島から動物園を招致し、客集めを図っていた。
ドーム式浴場
当時の子どもにとってはその名の通り夢の国で、一日中遊んでも飽きることのない楽園であった。
屋上を周回するレール式ゴーカート、極彩色に彩られたプールサイドや廊下、天空にそびえ立つ柱。
動物園や水族館も子どもには充分満足な規模であった。大人はボウリングを楽しみ、レストランや
宴会場等の飲食施設で腹を満たし、のどを潤すこともできた。わずかながらも宿泊施設も付属した。
飯田の山と園内の雰囲気は対照的
しかし1969年(昭和44年)、当時は県内企業としては勢いのあった山形交通が飯田からそう遠くない
上山市金瓶に山交ランド(現 リナワールド)を開業させた。現在ではレジャー産業での過当競争はほとんど
見られなくなったが、このころは各デパートがそれぞれ遊園地を持っていた上、ドリームランド、山交ランド、
そして山寺芭蕉園と、狭いエリアでレジャー客の取り合いをするような競争があったのである。
客足が分散したうえ、積雪時には稼げないドリームランドの経営に翳りが見えはじめた。
柱状の建造物はトイレや螺旋階段
経営が傾いた1971年末には飼育していた動物を、なんと飼育係と外国の剥製業者(ソ連と言われている)が
園内で猟銃を用いて射殺処分した。餌代節約と死体の売渡が前提だったと思われる。
これは事件となり大いに世間の非難を浴びることとなった。経営に困ってのこととされていたようだが、
この行為は経営の負担軽減となるどころか客を全く失う結果となり、ドリームランドは間もなく閉鎖してしまった。
外堀にはボートを浮かべる計画もあった
建物自体はその後もしばらくそのままになっており、出入りもできたので1975年頃に内部探索をしたことがある。
立体的で曲線的な、好奇心を刺激する構造であった。廃墟となってもなお、人の心を揺り動かすこの建造物が
黒川紀章の作であったと知るのはその後数十年経ってからのことである。黒川紀章氏についてはあまりいい
印象は持っていなかったのであるが、この建物のことを思い出すとその奇才を思い知らされる気がする。
実は、ドリームランドにはその後の増殖計画も提示されていた。冬期は全く使えなくなるプールに
透明天蓋をかけてクリアドーム温水プールにする壮大な案に加え、同様のデザインを用いた宿泊施設の併設等、
細胞増殖をイメージした計画であった。これが南国であれば成功していたかも知れないものであったが
黒川氏には半年で1年分を稼がなければ成り立たない北国のリゾート事情の理解が不足だったようだ。
計画模型
5年に満たない営業期間。建築費を考えれば大赤字に終わった筈である。現在の飯田5丁目には
この壮大な試みの痕跡は全く残されていないが、ドリームランドの跡地に隣接して建った飯田温泉の
お湯だけは大ドーム棚田式温泉に流れていたのと同じお湯ということになる。
山形ハワイドリームランド 1967−71
(枠付きの写真は当時の月刊建築文化:彰国社からの参考写真です)