続 山形駅西
山形駅西側には、鉄道を管理する機関区、保線区関連の建物もひしめいていた。
東口周辺がいかに世の移りとともに変わろうとも、この辺りにはまた別の時間が流れており
ちょっとやそっとの事では動じない構えを見せているかのようだった。
しかしそれでも大規模な西口周辺開発の波には勝てず、大半は山形テルサや霞城セントラルの敷地として呑まれて消えていった。
機関区の様子 並んだ電気機関車が見える
小ぶりの建物が多数並んでいた
平成の時代には見えない風景
列車に乗るとき、東側に座って車窓を眺めるのと西側に座るのとでは
山形駅周辺の印象は大きく違って見えた。時代が30年以上も違って見えるのである。
夜ともなればそれは更に顕著になった。片や色とりどりのにぎやかな照明、
そして一方には黄桃色の裸電球が点々と灯っているのであった。
保線区関連の建物
電気機関車に牽かれた客車と、シルバーの電車とが併走する様子が見られる。
山形までのミニ新幹線開通後も新庄延伸までの期間、山形以北は従来の狭軌の線路であったためしばらくは全て山形駅が終着であった。
そのため「山形ターミナルビル」という名(ターミナル=終着)が駅舎に付けられたのであったが
その後の延伸で全く意味をなさなくなり、この名を使う人も少なくなった。
旧国鉄関連の建物が残る
国鉄関係のものには周辺に杭が巡らされることが多かった
主要駅の周辺には鉄道関連と思われる数多くの建物が建っているのが
当然と思っていたが、西口周辺整理後にはほとんどが消えた。それでも
駅の運営は成り立っているのは何故か。あの建物たちの機能は不要となったということか。
自由通路アピカ完成
アピカの完成、開通はほんの最近の印象であったが平成5年(1993)ということで
既に一昔前のことになった。自由通路の名は、利用目的が自由ということで、展覧会や
パフォーマンス公会会場に利用して欲しい、というのが当初の紹介であった。