山形専売局
現在のヤマコービルの位置には、以前専売局があった。重厚な威厳のある建物で
今残っていれば文化財としての価値も認められたかも知れない。しかし、撤去された昭和40年代当時は
山形駅前を近代化するには邪魔な、古びた建物としか人々の眼には映ってはいなかったのであろう。
12代小田切磐太郎県知事の在任時の施工であったことから明治末期〜大正初期にかけての建物で
あったことが推測される。他にも幾つかこの建物の画像を目にすることはあるが、全てモノクロであった。
その後専売公社は2本南の通りに移動し、それも今は撤去されて山形学院の敷地になった。
タバコ、塩、酒など「専売」の文字の元、特別扱いされていた品々は専売店の手を離れ、
スーパー、コンビニなどいつでもどこでも手に入る一般商品になった。
第32連隊通用門
14世紀に斯波氏が城を建立してから500年あまり、明治初期に城が破壊されるまで
統治する城主は代わっても、現在霞城公園と呼ばれるここが城下町やまがたの中心地であった。
城無きあとは畑になったこともあるが、明治30年頃に山形歩兵第32聨隊の駐屯地
としてから半世紀の長きに亘って軍隊の本拠としての機能を果たした。日露、日中、日米
の各戦争に将兵を送り出すと同時に城下町の経済活動にも大きく影響を与えてきたのであった。
霞城公園はその後、学校になったり運動施設になったりと姿を変えてきたが、
現在は歴史公園としての整備事業により、多大な年月と費用をかけ、山形城当時の
姿に戻されようとしている。資料が不足している中での見切り着手だったらしいことが
懸念され、歴史的な正確性がどこまで追究できるのかが注目されるところである。