山形城の城跡は明治になって歩兵三十二連隊の兵営敷地となった。
以後長らく兵舎を並べ、日清、日露、そして日米戦争に兵を送り出していたが
第二次世界大戦が終わると、公園として整備され、運動施設が次々と建設された。
中学、高校の市、県大会を公園内でまかなえるよう、野球、サッカー場をはじめ
武道館、弓道場、プール、体育館、ソフトボール場、そしてこの庭球場
(テニスコート)と設備が揃い、総合運動公園として長い間機能していた。
中体連、高総体の時期になると公園内には中・高生があふれ、大いににぎわった。
周辺の商店には昼食を買い求める生徒や保護者等が訪れ、売り上げにも多大な
影響があったようだ。さらに、どんどん焼きなどの露天が出ることもあった。
平成4年の国体(当時は67国体:昭和67年の意)の開催が決まってからは、県は天道総合運動公園
や落合のスポーツセンターの整備を進め、霞城公園からの機能移転を企画した。けれども新規の
運動設備はいずれも国体開催に主眼を置いたため、国体後の利用の視点に欠けていた。
特に中高生の移動への配慮が不足しており、多数のバス路線や鉄道の集中する山形駅に程近い
霞城公園のような利便性はなく、施設の立派さの割には「通いにくい」として稼働率は低かった。
老朽化しているといっても、霞城公園が運動設備を備えている限り他の運動施設の
稼働率は上がらない。ならば公園内の運動施設を撤去して歴史公園としての整備を。
というわけで東大手門の建設に始まる霞城公園の歴史公園化が進められることとなった。
手始めにサッカー場に石垣が復元されることになり、次いでプールが撤去された。
便利な場所にある市民プールとして親しまれたものであったが「馬見ヶ崎ジャバ」
に役を譲る、という形であった。利用者は遠く馬見ヶ崎川を遡って行くことになった。
「山形のウィンブルドン」であったこのテニスコートも2006年ごろに解体工事が始まり、
あっという間に姿を消してしまった。老朽化も進んではいたものの、市内のこの場に
これだけの面数があったのは貴重であっただろう。これも跡地は掘り起こされて、
今は荒野となっている。歴史関連の復元物が建設されるのだろうか。
霞城公園庭球場(テニスコート)