旧山形市立第六小学校
山形市立第四小学校までは明治時代の設立、第五小学校は大正時代の創立となるが、
第六小学校については昭和に入ってから、市の南部繁栄の意図のもと、産業道路の
南進に合わせるようにして昭和九年に開校した。もっとも、設立当初は山形市第七尋常
高等小学校の名称であった。そのため、現七小は当初八小であり、校章には虫のハチ
が(数字の八との語呂合わせで図案を決めたとのこと)今も採用されたままになっている。
昭和初期 アールデコ様式
当時の最先端、アールデコ建築様式を取り入れた豪奢な造りは、後に続く現七小(当時八小)
とともに県内でも稀にみる建築物となった。現存すれば両校とも文化財クラスとなると思われた。
校舎の端がラウンドしているのは七小同様、階段に代わるスロープが設置されているためで、
上の階まで段を上らずに行けたという今でいえばバリアフリーのようなアイディアが盛り込まれていた。
対アメリカ開戦した昭和十六年には第六国民小学校となり、敗戦後すぐには進駐軍に接収されて
児童は追い出されてしまった。以後2年間にわたって六小児童は校舎を持つことができず、米軍は
思いのままに校舎を利用した。近隣の日本人を使用人としながら常時千人ほどが宿泊していたようだ。
このスロープを米兵がジープで駆け上がったのではという話も聞くのだが、日本車より
大柄なアメリカ車がこのカーブを曲がれたのか、真偽のほどは定かではない。
ただ、銃器の試し撃ちなどはわりと日常的に行われていたようで、壁面の弾痕や
残留弾薬などの構内での発見は昭和四〇年代まで続いていたとのことであった。
この貴重な校舎が保存の機運もなくあっさりと解体されたのは文化財的な観点からは残念だが、
日々使用する学校という機能的な面からは旧校舎を残しておけるほどの敷地の余裕もなかったということが
あるだろう。また、なぜか独特の「ナンバースクールは数が少ないほど格が上」という不文律のようなものが
六小や七小に保護の声を与えなかったのかもしれない。その証拠に一小については取り壊しを免れ、
保存建築となっている。ただ、一小については換骨奪胎されてしまい、学校の遺構としての配慮は皆無で、
児童の使用した当時の内装などはすべて破壊、撤去され無残な形になっているのが残念である。
むしろ、あっさり解体された校舎のほうが幸せであったか。
セピア調のものについては拝借画像です。
山形市立第六小学校 旧校舎(1932−1996)