遙か遠くからでも見えた煙突
この煙突は長谷川製糸工場のシンボル的存在となっていたが、設立当初からあったものではなく
昭和6年の5月に建てられたものである。先代のものがあったとすれば煉瓦製であったかもしれないが
これはコンクリート造りで、高さは38m。昭和6年には石炭ボイラーの煙を吐き出していたが、翌年には
重油ボイラーに換装されたようだ。撮影時点では既にボイラーとボイラー室は撤去され、煙突も6mほど切りつめられていたらしい。
南東角の門
煉瓦柱の疑似洋風門。通常の建物なら正門レベルであろうが、この大規模工場では勝手門の
扱いであっただろうと思われる。夜間には門柱の上部に電灯かガス灯が灯ったのではないだろうか。
角を曲がり南側に回り込む
とても平成、21世紀とは思えない風景が視野一杯に押し寄せる。これで電柱がなく、
道が舗装されていなければそのまま時代劇の撮影に使われるであろう。
実際に映画「ああ野麦峠」の撮影に使われたという話もある。
長谷川家の門か
道の正面には旧家の門が現れ進めない。右手の工場南門に入る。
自動車の進入にも充分な幅を持つ南門
事務室棟 昭和14年建造
事務室棟は長谷川合資会社の銀行であり、工場の事務室ではなかった。事務室の他、応接室、宿直室、
そして金庫室もあったという。工場内では東銀行と呼ばれたこの銀行は、工場が従業員に賃金として
支払ったものを預金として回収・運用し、利益を上げていた。経営者としては利益を外部に流出させない
巧いやり方であったと言えるだろう。その他工場内には生活に必要な店、施設は一通り備えられていた。
独自の消防ポンプさえ大正時代(大正11年)から配備されていたという。
管理・守衛室
物品・人員の入出をチェックしていたと思われる建物。荷車、馬車の時代から
貨物トラックの時代まで、何万回という車両の出入りを管理していたことであろう。
荷受場 昭和3年建造
原料となる繭が各農家から運び込まれると、はじめにここに降ろされたのであろう。造りが校舎に似ている。
工場棟群を望む 南門前の堀
この時代がかった工場が創業をやめたのは比較的最近で、平成9年までこの姿のまま使われていた。
撮影時点までに幾つかの棟は撤去されてしまっていたものの、それでも県内には他に例を見ない、さらに
全国的にも有数の大規模製糸工場跡であった。充分に産業遺産としての価値があり、保存の方向も
期待されたが、財政的な裏付けがなかったこともあってか、残念ながら全施設撤去の方針のようだ。
長谷川製糸工場跡(一部のみ現存)