芸工大付近

 

 

開校当初

 

大学より上桜田地区を見る

 

1992年に開校した東北芸術工科大学。「山形市上桜田に大学が出来る。」という

話を聞いてからでも、「まさかこの山際の田んぼの中に・・・」といって信じない人も

多かった。茅葺き屋根さえ珍しくない所に大学の建物が建ったところを想像する

ことが難しかったのである。ーーー しかし、そうしているうちに工事が始まった。

 

農道しかない所に工事道が開かれ、クレーンが建ち、次第に建物が姿を現した。

何故か見慣れたその形・・・・・。本間設計事務所が手がけた山形美術館、落合の

スポーツセンターなどと同じ、「多層民家のイメージ」シリーズであった。

美術館でもスポーツ施設でも大学でも同じ形であらねばならないのはどうしたことか。

 

建設開始当時

 

 

   

青春通り

 

桜田から芸工大に向かう道は青春通りと名付けられ、学生街になることが

期待された。通りには歓迎の横断幕が掲げられ、喫茶店や飲食店が次々と

開店した。しかし、徒歩や自転車に頼っていた時代の学生とは違い、機動力

を持つ現代の学生は、地元の店にこだわらず、市内を自由に動き回った。

青春通りは当初の想定通りに学生を集めることはなく、夢破れた店が次々と

姿を消していった。安定した経営が出来ていたのは青春通りの末に位置する

ガソリンスタンドと数件のラブホテルだけという皮肉な現実が此処にあった。

 

 

 

 

   

 

現在は瀟洒な新興住宅が並ぶ一帯も、土壁や茅葺きが並ぶ農村地区であった。

鎮守の杜があり、小川が流れ、重そうな実のなった柿の木があちこちに立っていた。

 

 

  

 

黒黒とした立木は神社を囲む神木である。しかしそれらはその後伐り払われ

神社は向きさえ変えられ、住宅に合わせられた配置で整理された。

 

   

石碑や野仏達はどこかに姿を消した

 

 

 

  

 

この時点では土地の収用が決まっているために、道路予定地には

盛り土がされ、耕作は放棄されて荒涼とした感じが漂っている。

 

 

 

  

 

 

住宅地は大きく拡がり、曲がった道もまっすぐに整備されて田舎風景は一変した。

芸工大のモチーフとなっている「多層民家」の周辺風景としては整備以前の方が

相応しかったであろう。だが、「大学の近く」を売り物にした住宅販売戦略が当たった

のか、今では色とりどりの住宅達がひしめいている。大学の近くが何故いいのか

わからないが、学園都市に住める、というような漠然とした憧れがあるのであろう。

 

一方こちらに食われた形で同時並行していた事業、「みはらしの丘」構想

(事業開始当時には 山形ニュータウン構想 と呼ばれていた。) は

根底から崩れてしまった。小学校まで開校させたにもかかわらず、人口は

想定を大きく下回って現在に至っている。こちらの住宅街の急激な発展で

ここを学区に抱える滝山小学校が増員対策に悩んでいるのと好対照である。

 

 

 

  

 

  

 

 

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