豪雪で、広範囲に亘って民家が点在する朝日町では古くから多くの小学校、分校があり、
その多くが平成まで残っていた。しかし、地域経済の衰退とともに効率化をめざして次々と
閉校の嵐が吹き荒れ、分校はもとより百年を越える歴史を持つ本校であっても廃される例が相次いだ。
和合小学校もそうした波に抗うことはできず、2007年度末、132年の歴史に幕を下ろした。
門柱に金属製の銘標
この時点(2007.6)ではまだ現役校舎であった。子どもたちが外掃除をする竹箒が整然と並べてある。
グラウンドは十分に広く、周囲に迫る建物もないため開放感がある。
創立百周年記念の碑も、既に数十年の星霜を経ている。
創立は明治八年(1875)。戊辰戦争から間もない頃であり、まだ元武士の
大勢いた時代である。西郷隆盛が起こした西南戦争は創立の2年後であった。
これまで輩出した卒業生は二千人ほどとのことであった。
在校生が千人に迫る山形市内の大規模校からみれば、百三十数年間での
延べ卒業生が二千人というのはいかにも少ないようだが、少人数規模でありながらも
これまで学校の灯を絶やさなかった朝日町の教育に注ぐ情熱を感じさせる事実でもある。
この建物は明治のものではなく、昭和二年(1927)の建造である。
それでも既に八十年を越える老朽校舎であり管理は大変であろう。
最終年の在校生は四十一人とのことであった。
古いながらも手入れの行き届いた校舎、敷地の様子に
校舎を愛していた児童と職員の方々、そして地域の人々の
想いが表れているように感じられた。
児童たちは今後は宮宿小学校に通うことになる。
送橋小学校
水本小学校
上郷小学校
ここ数年で、これらの小学校が宮宿小に統合され、更に和合小出身児童が宮宿に通うことになる。
歩いていけるのが当然のはずだった小学校は、スクールバス通学となり、ますます地元との結びつきが薄くなってゆく。
しかし、和合小学校の場合廃校反対の声は大きくはなく、人数規模の小ささを
補う意味で賛成する声や、町の財政を考えると存続は困難だろうという声が
多かったと聞く。廃校は望まないながらも、やむにやまれぬ判断だったのだろう。
このような木造校舎は消えるのみであり、木造校舎で学校生活を過ごした
人たちも減る一方である。木造校舎の醸す雰囲気を語り継ぐことは難しいため、
廃校のあとも校舎の保存、転用が望まれるが老朽化のこともあり可能性は低い。
(校舎は2013年内には撤去され、跡地は老人ホームへの転用となった)
朝日町立 和合小学校 明治8年〜平成20年3月(1875-2008)